織田信長の人生紹介

出生から尾張統一へ(清洲城)

 織田信長は1534年(天文3年)、尾張(おわり)勝幡城(しょばたじょう)で生まれ、後に那古野(なごや)城(現在の名古屋市)で育ちました。幼名を吉法師(きっぽうし)といい、父は尾張下(しも)四郡を支配する清洲城主(きよすじょうしゅ)(現在の清須市)織田家の家老織田信秀です。

 1546年(天文15年)、元服して織田三郎信長と名乗り、父 信秀の死によって18歳で家督をつぎ、みずから上総介(かずさのすけ)を称します。この頃の信長は、好んで異様な風体をして、粗暴な振る舞いが多かったので、「大うつけ者」(大ばか者)の評判が高く、そのため織田家の家臣や一族には信長から離反するものも多く出ました。お傅役(もりやく)の平手政秀は、自身の死をもって信長を諫(いさ)めたので、信長も深く悔悟(かいご)し、政秀の死をいたんで政秀寺(せいしゅうじ)を建立し、菩提を弔いました。

 その後、信長は尾張国内の反対勢力を一掃するための統一行動をおこします。まず、松葉・深山両城の織田氏を攻略し、下四郡の中心地 清洲城の織田信友を滅ぼして、ここに本拠を移しました。

 さらに、信長に反逆を企てた、弟の信行を清洲城内で謀殺し、1559年(永禄2年)には、尾張上(かみ)四郡の主城・岩倉城の織田信賢を降して、ほぼ尾張一国をその支配下に収めます。この尾張統一の過程で鉄砲と長槍で武装し、信長の手足となって動く強力な家臣団の編成が進みました。

 その翌年(1560年・永禄3年)には、「東海の雄」と言われた駿河(するが)・遠江(とおとおみ)・三河(みかわ)の大守 今川義元の大軍約2万5千人を2千人程度の兵で田楽狭間に襲撃し、義元の首級を挙げました。史上有名な「桶狭間(おけはざま)の戦い」です。この戦いで信長の武名は一躍四方にとどろきました。 

 

美濃攻略へ(小牧山城、岐阜城)

 1562年(永禄5年)、今川氏の支配を脱した三河の松平元康(のちの徳川家康)と盟約を結び、元康に東方の防衛を委ね、信長は西方進出を図り、美濃攻略を開始します。このため、1563年(永禄6年)、清洲城から居城を小牧山に移し、美濃の斎藤竜興とその後激しい攻防が繰り返されました。

 小牧山城を築いて美濃攻略の拠点とした信長は、東美濃にある斎藤方の諸城(鵜沼・猿啄(さるばみ)・堂洞(どうほら)城)を攻め落としました。その厳しい戦いぶりは、美濃の土豪たちに動揺を与えました。とくに、西美濃の土豪の中には、信長に誘われれば、なびこうとする動きが見えだしたのです。

 1567年(永禄10年)、斎藤氏の有力家臣であった西美濃三人衆の稲葉一鉄・氏家ト全(ぼくぜん)・安藤伊賀守が、信長に味方することを申し出ました。

 このことを聞くや、信長は三人からの人質を受け取る前に、すぐに木曽川を越えて稲葉山城に殺到しました。火を稲葉山城下に放って城を孤立させ、包囲の体制を整えて攻撃を開始しました。

 稲葉山城は、援軍の来る見込みのない“はだか城”です。龍興はついに降服を申し入れ、稲葉山城を明け渡して、長良川を船で下り、伊勢長島へ退きました。8月中旬(信長公記)とも、9月上旬(瑞龍寺紫衣輪番帳(ずいりゅうじしえりんばんちょう))ともいわれます。実に10年間に及ぶ信長との攻防の末、稲葉山城はついに落城したのです。

 また、この戦で、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が、長良川沿いから金華山を登り城の背後へ廻り一番乗りをした際、味方への合図に竹の先に瓢箪をつけて振ったという、秀吉の馬標(うまじるし)「千成びょうたん」発祥の場所でもあります。秀吉が登ったルートは現在の金華山登山道・めい想の小径に近いルートでした。

 長井新左衛門尉(道三の父)・斎藤道三・義龍・龍興と続いた「後斎藤氏」(斎藤利永・妙椿らの前斎藤氏と区別する)の美濃支配の時代は終わりました。

 龍興は、その後、長井隼人正(はやとのしょう)を伴い、近江の浅井長政を頼って落ち延びます。龍興の妻が長政の妹という関係からでしょう。

 「信長公記」には、稲葉山城落城後の1569年(永禄12年)、京都六条合戦に、三好(みよし)三人衆(反信長勢力の三好長慶(みよしながよし)の部将たち)と一緒に龍興・隼人正が織田方と抗戦したことが載っています。龍興はその後、越前の大名朝倉義景(あさくらよしかげ)(信長に攻められて一乗谷(いちじょうだに)で自刃)に属し、1573年(天正元年)、越前敦賀刀根山(とねやま)合戦で信長と戦い、討死しました。

 龍興の位牌は現在、常在寺に安置され、「天正元年八月八日」の没年月日と、法名「瑞雲院殿竜貞日珠大居士」が記されています。 

 

天下統一を目指して(安土城)

 1576年(天正4年)、信長は将来の飛躍に備え、近江の安土(滋賀県安土町)に居城を築いて移りました。城は、七層造り天守閣を持つ本格的な城郭で、その豪華さは人々を驚かせました。

 城下町の繁栄を図るために13ヶ条の掟を公布し、城下を楽市とするとともに、様々な特権を与えて商人の誘致をはかりました。

 一方、岐阜城は嫡男(ちゃくなん)の信忠に与え、尾張・美濃両国を支配させました。信忠は1557年(弘治3年)尾張清洲城で生まれました。1572年(元亀3年)岐阜城で元服し、同年父に従って浅井長政の近江小谷城を攻めたのが初陣です。以後、各地に転戦して軍功をたてました。

 1574年(天正2年)伊勢長島の一向一揆討伐、翌75年(天正3年)の長篠の戦に参加して勝利を収め、その余勢で、武田氏の属城であった美濃の岩村城を攻略して、守将の秋山信友を捕虜にしました。この戦功によって秋田城介(あきたじょうのすけ)に任ぜられ、翌76年(天正4年)に従四位下の官位が与えられました。信長の後の岐阜城主となり、後継者としての立場が鮮明になったのです。

 安土城に移った信長は官位も次々に進み、内大臣から右大臣、1577年(天正5年)には正二位に叙せられました。

 信長の天下統一事業も、1580年(天正8年)羽柴秀吉により三木(みき)城(兵庫県三木市)が落城し、長年信長に頑強に抵抗していた石山本願寺も顕如(けんにょ・本願寺法主(ほっす))が降伏して、畿内も平静になりました。

 1582年(天正10年)2月、甲斐の武田氏を滅ぼした後、同年5月、備中高松城(びっちゅうたかまつじょう・岡山県岡山市)を包囲して毛利勢と対峙(たいじ)していた秀吉から救援要請を受けて5月29日、信長は安土城をたって上洛し本能寺に泊まりました。しかし、6月2日の未明、家臣の明智光秀(あけち みつひで)の襲撃を受けて自刃しました。

 時に信長49歳でした。


郷土史家 加納 宏幸