清州城
KIYOSU
岐阜城
GIFU
小牧山城
KOMAKIYAMA
安土城
AZUCHI

織田信長の「日本の城」革命

現代人が思い描く「日本の城」には共通のイメージがある。

それは、「石垣に瓦葺きで高層の天守閣を備えたもの」というものである。

実際、「石垣に瓦葺きで高層の天守閣」という構造は、世界遺産姫路城を代表に、全国各地の城に共通している。

しかし、「日本の城」として思い描かれるその美しい構造は、織田信長以降の近世に造られたものであり、それまでの城は、土を盛り、堀をめぐらせることにより造られていた。

「土の城」というそれまでの常識を覆し、「石垣に瓦葺きで高層の天守閣」という新しい常識を打ち立てたのは、織田信長だったのである。

信長の居城を巡る旅は、城が「土の城」から「総合建築」に発展した過程を見る旅であり、日本の城のルーツを探る旅でもある。

織田信長の歩み

1555年 清洲城城主となる(守護代家を滅ぼす)
1560年 桶狭間の戦い(今川氏を破る)
1563年 小牧山城築城居城を移す(清須から小牧山へ城とまちを移す)
1567年 岐阜城へ居城を移す(斉藤氏を下し美濃を攻略する)
1576年 安土城の築城開始・居城を移す(畿内へ進出する)
1582年 本能寺の変(信長死去安土城焼失)

信長の城革命1 石垣の小牧山城

小牧山城は織田信長が自ら初めて築いた城である。

その小牧山城の築城に信長が取り入れた、「石垣に瓦葺きで高層の天守閣」という近世城郭の姿に繋がる構造は「石垣」だった。

しかもその「石垣」は、近世城郭のはじまりに位置づけられる試みであったにもかかわらず、ただ石を積みあげたものではなかった。

表面の「石垣」として見える部分は、隙間を埋める「間詰石」が、裏側には崩れを防ぐ「裏込石」が積まれていることがわかっており、基盤の「根固め」から、排水処理のための「石組み遺構」も発見されている。

そこには試行錯誤で工事に臨んだ跡はなく、明確な思いを持った上での「石の城づくり」だったことが分かる。

その手法から、信長の城に対する思いを汲み取ることができるのである。

そもそも、当時の山城であれば、地形を利用して堀と土塁をめぐらせれば「完成」であり、戦いの拠点としての機能はそれで足りる。

小牧山の標高は85.9mであることを考えても、「石垣」が、どれほどの労力でつくられたのか、また、どれほど「常識外れなこだわり」であったのかを推し量ることができる。

そうして築城された「石垣」の小牧山城は、「小牧山城を見た敵陣の武将たちが次々に信長に下った」と伝えられるほど、当時の人々にとって驚異的な建築だった。

今では当たり前に「日本の城」の一部と考えられている「石垣」は、いわば“見た目”から発想されたものであり、そのはじまりにおいては、その“見た目”により人々を圧倒する構造だった。

信長の城革命2 金箔瓦の岐阜城

信長は美濃が攻略できると、「石垣」の小牧山城を捨て美濃の稲葉山城に居城を移し、そこで城を「岐阜城」として大改修している。

そして、小牧山城の「石垣」に続き、城郭へ「金箔瓦」を使用し、“城を飾る”という城革命を起こした。

信長の時代、城は戦いの際に詰める拠点であり、一時的な軍事施設だった。

そのため、これまで城に瓦が使用されることはなく、装飾が施されることもなかった。

城が瓦葺きではないことは当時の常識であり、「石垣」に関して完成された技術で築城された小牧山城からも、瓦は発見されていない。

しかし、岐阜城で発見された瓦は、牡丹文に形成されたうえ、金箔が施されていた。

しかも、金箔瓦を用いた建物は、平屋建てではなく地下通路を備え、その地下通路を通った先に広がる、城下の景色を劇的に見せる仕掛けをもった構造になっていたことが分かっている。

これこそ、岐阜城で公家や他の戦国大名、文化人や商人など訪れた客人をもてなすという、信長が岐阜城に求めた役割の表れである。

絢爛豪華な装飾で飾られた意表をつく構造の建築は、人々を楽しませると共に信長の権威を見せつけた。

岐阜城は信長にとって、“おもてなしの空間”であり、隣国の戦国大名や朝廷との関係を良好に築くための外交の拠点となった施設だったのである。

岐阜城への「金箔瓦」の使用は、城の構造だけでなく、城の役割の革命だった。

信長の城革命3 天主の安土城

岐阜城の「おもてなし」の仕掛けは、金箔瓦の迎賓館の他に、川や滝を備えた壮大な日本庭園など、絢爛豪華を極めた。

しかし、岐阜を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスに対し信長は「自分の屋敷を見せたいが、あなた方が見てきたヨーロッパやインドの建物に比べて見劣りするのではないかと思い、迷っている」と発言した記録が残っている。

海外の文化に傾倒した信長は「海外に負けない建築物をつくる」という思いを強めていたのである。

安土城の「天主」は、外観の瓦層は5層、内部は全7階(地下1階、地上6階)で、外壁は3層目までが黒、4層目が朱、5層目が金箔、屋根瓦も赤・青・金箔瓦という、岐阜城よりさらに複雑な構造かつ華美な装飾によって城郭が建設されている。

それが、後の「天守閣」に繋がる高層建築「天主」と言われるものである。

そんな安土城には、諸大名から町人にまで、入場料をとって城を見学させた史実が残っている。

その史実からは、信長にとって城はその構造で人々を圧倒し魅了するものであり、小牧山城、岐阜城と試行錯誤をした集大成が安土城だったことが読み取れる。

城郭ホップステップジャンプ

信長の城づくりの凄さは、その転居の度に、石垣、瓦、高層建築と、後の「日本の城」に必要な構造を、必ず一つ新しく組み込んでいるところにある。

信長がそれまで居城していた清須城が「石垣、瓦、高層建築」が何も無い、「これまでの常識」に則った城であったことも、その違いを引き立たせ、信長が清須城で城づくりを構想した姿を想起させる。清須城には、信長の試行錯誤の跡が今も眠っているかもしれない。

その城郭史上における新たな試みは、ただの奇抜な発想で終わらず、その後の城郭建築に継承されている。

今私たちが思い描く「日本の城といえば、石垣に瓦葺きで高層の天守閣を備えたもの」というイメージは、信長によってデザインされたといっても過言ではない。

そしてそのデザインは、人を驚かせること、人を楽しませることから発想された、信長の「城を魅せる」こだわりから生まれたものだった。

織田信長の居城をめぐると、信長は天下統一の立役者であると同時に、新たな常識を打ち立てるほどの偉大な建築家であったことがわかる。

信長が起こした、「戦いのための城」から「魅せる総合建築としての城」への大革命は、現代日本の都市景観に継承されている。